池波正太郎とフィルム・ノワール
池波正太郎が愛したフィルム・ノワールの世界

テレビドラマにもなった不動の大人気シリーズ、「鬼平犯科帳」「剣客商売」「仕掛人・藤枝梅安」をはじめとする多くの時代小説、食や人生に関する味わい深いエッセイ、そして戯曲など。池波正太郎が遺した1000以上にものぼる作品は、没後20年以上を経た今なお、多くの人々に愛され続けています。 池波正太郎と言えば食通として知られていますが、その一方では映画をこよなく愛していました。

「映画と芝居に耽溺した若い自分がなかったら、私は、『どうなっていたか、知れたものではない……』といってよい。時代小説を書いて暮しを立てることができるようになったいまの私は、まさに、映画と芝居の加護を受けてきたといえる」 (『回想のジャン・ギャバン フランス映画の旅』平凡社刊より) 幼少の頃から映画の魅力に取りつかれ、「3日も見ないと生理的飢餓感を覚えるほど」と語っていた彼は、小説家として忙しい日々を送る中でも、月に15本もの作品を鑑賞し、自らを「シネマディクト(映画狂)」と称していたほどでした。

愛や友情、そして裏切り。こうした人間心理を深く描くフィルム・ノワールに強く影響された池波正太郎は、「盗賊」や「殺し屋」など、闇社会の中で生きる人物を題材にした作品を数多く遺しています。中でも、火付盗賊改方の長官・長谷川平蔵と盗賊たちの攻防を描いた「鬼平犯科帳」、表向きは鍼医者、しかし裏稼業として金で殺しを請け負う男の姿を描いた「仕掛人・藤枝梅安」、この2作品にフィルム・ノワールの世界観が色濃く投影されていると言われています。 池波正太郎は自身の作品の中で、人の普遍的な営みを描きながら、日常からあふれる人々の機微を描きました。その中で繰り返し「人はいいことをしながら悪いことをして、悪いことをしながらまたいいことをする」と提示しています。「人の心の闇」それは彼の作品に秘められた、大きなテーマです。彼の物語には、「善人と悪人」という単純な描写はありません。人の心、社会、この世のすべての物事には必ず二面性があり、表だけでも裏だけでも成り立たないこと。目に見える表面的なものではなく、その背後にある影の部分——。すなわち人の心の弱さや欲望といった闇に目を向け、矛盾を抱えながら生きる人々の様を、深い洞察をもって精巧に描き続けました。

「日本映画にもアメリカ映画にもない、深い奥行をもった画面と、あまりにも自分の周囲にいる人間たちに似ているフランスの俳優たちと、彼らが演ずる人間像に強くひきつけられ、神田の〔シネマ・パレス〕という映画館が上映する古いフランス映画は欠かさずに観た」 (同書より) 邦画・洋画を問わず、膨大な数の作品を見続けてきた池波正太郎は、とりわけ「フィルム・ノワール」と呼ばれるフランス映画を好み、技巧派の名匠ジュリアン・デュヴィヴィエ、深みのある演技と渋い容貌で絶大な人気を博した名優ジャン・ギャバンを敬愛していました。 フランス語で「黒い映画」を意味するフィルム・ノワールは、1940年代から50年代にかけて製作された犯罪映画の総称で、モノクロームの中に光と影が交錯する映像スタイルが特徴で、憎しみや裏切りといった人の心の闇、人生の非情をテーマに描かれています。また、作品の多くには「ファム・ファタール」と呼ばれる美しい悪女が登場し、男を破滅へと追い込んでいく展開があることも特徴のひとつです。

池波正太郎は、こうした独自の人生観に、自らが愛したフィルム・ノワールを重ね合わせて、多くの名作を遺しました。江戸時代の市井の暮らしが、フィルム・ノワールになって現れたかのような斬新さ。読者の心を惹きつけてやまない、登場人物の心の機微。さらには波乱に富む展開や予測のつかない結末。珠玉の作品の数々は、池波正太郎にしか描けない時代小説、まさに「江戸ノワール」であると言えるでしょう。そして、江戸と現代と時代は違えど、誰しもが抱える普遍的なものを描き続けた彼の作品の心は、今を生きる読者の心にも深く届く作品——変わり続ける世の中で、いつまでも人の心に残る、永劫の人間ドラマであり続けるのです。